SF日記。

Unityや3Dツール、DTMなどの技術的な情報とか書くかもしれない。

保守的姿勢から、「ネオセカイ系」へ~2010年代後期の流れを考える

※この文章は、入眠剤を飲んで意識が開いた筆者が、立ち昇る思考を感情の赴くままにtwitter上に書きなぐったものを、整理してだいぶ読みやすくしたものである。と言っても、整理している現在も入眠剤を飲んでいるので、きちんと整理できているかどうかは疑問だが。

 

 10年代は震災から始まった。東日本大震災。そしてその後、日本は急速に保守派になった。なぜ保守派になったか。やはり、自然の大災害という大きなものに対する恐れがあったのではないだろうか。

 それともう一つ、個人的には、その当時流行していたジャンルである、多界モノ(複数の次元や世界が存在するという設定)が、東日本大震災によって、成立しなくなったということである。パラレルワールドや、過去と未来を何度も行き来するタイムリープモノを何度見せられたとしても、僕らは東日本大震災によって起こった悲劇と被害を受け入れるしかない。もう決まってしまった事実を改変することは出来ないという重い事実が国民にのしかかった結果、そのような思想が日本中に蔓延し、結果、日本は強烈に保守的になり、また現実主義的になった。

 とある小説家が震災後すぐの記事で「今まで隠れていた日本の深層・暗部が、地震によって露呈しはじめた」と書いていたが、まさしくそのとおりで、多くの企業が(最初はやはり被災者支援に協力的であったが)徐々にその本性を明らかにしていった。国民が保守的になったのをいいことに、さらなる使い捨て体質へと変貌していった。ネット上の言論は混迷を極めに極め、労働者は日々上がり続ける物価と変わらない給料、そして現場で飛び交う怒号によって、徐々に疲弊していった。読者は、ここ最近レストランや病院に行ったことはないだろうか。あのあたりの仕事量の増加は、もはや完全に崩壊しているとしか思えない。結局、今まで資本家が労働者を搾取することができていたのは、労働者が元気に働くことが出来ることが前提だった。今はもはや一人ひとりの負担が限界を超えている。現場は常にパニックだ。十年ぐらい前に「自己責任」という言説が流行ったが、もはやこれは、この状態は「自己責任」などではない。これは「事故」だ。しかも、日本という国が起こした、日常に影響するとんでもない「事故」なのだ。

 

 数年前、宇野常寛の「ゼロ年代の想像力」を読んだ。

 

ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

 

 

その中で宇野氏はゼロ年代は「セカイ系」からDEATH NOTEライアーゲームなどといった「サヴァイヴ系」作品への潮流の変化が生じていると書いている。

 

DEATH NOTE デスノート(1) (ジャンプ・コミックス)

DEATH NOTE デスノート(1) (ジャンプ・コミックス)

 

 

 確かにその後、セカイ系的な作品は失速し、サヴァイヴ系の作品が台頭した。決断主義や、合理主義といった考え方が時代にあっていたのかもしれない。だがそれも、結局決断出来る体力があればという話ではないだろうか? 今の僕らは疲弊しすぎている。疲弊し過ぎた僕らにはもう、決断主義は響かない。ただ、うちに引きこもるのみである。しかも、セカイ系が蔓延した90年代後期~ゼロ年代前期とは状況が違う。インターネットの情報量は爆発的に増え、コンテンツ数も増えた。僕らの前にはもはや一生をかけても消費しきれないアニメ・映画・漫画・小説・音楽・ネット記事・動画が広がっている。その状況の中で、もう一度、私小説的で甘美な孤独に入り浸るのである。それは、前回のセカイ系とは明らかに異なる状況である。いわば、「ネオセカイ系」とも言える世界が広がっているのではないだろうか。

そして何より、僕らも年をとった。エヴァブギーポップ最終兵器彼女戯言シリーズなどに当時リアルタイムで影響を受けた若者は、現在20代後半~30代前半である。

 

 

 

最終兵器彼女(1) (ビッグコミックス)
 

 

 そこには、当時とはまた違う孤独の琴線が存在しているのではないだろうか。円熟した孤独なのか。それとも、子供のままなのか。

 

戯言シリーズアニメ化決定のニュースは、純粋に嬉しかった。またあの時代が戻ってくるのではないかと、少し、ワクワクしている。ワクワクしながら、秘密基地のような孤独の中に、僕は今日も引きこもっている。